Story
人生をあきらめた私が、
実験者になるまで。
Age 6
お母さんを助けたくて。
それだけが、すべてだった。毎週末、駅に立って署名を集めた。子どもの声に、大人たちは足を止めてくれた。
だけど、署名用紙に書かれていたのは、お母さんを治す方法ではなかった。医療機器の普及と、その病気の医療費の無償化運動。6歳の私には、わからなかった。ただそれをすれば、お母さんが治るんだと信じていた。
Age 8
会場の空気が、変わった気がした。
治るには、腎臓移植しかない。治ると思っていた。ずっと、そう信じていたのに。
帰り道、静かに決めた。大人になったら、お母さんに腎臓をあげる、と。
Age 16
16歳になった時、母は言った。「腎臓は、いらない」と。
母の声は穏やかで、だからこそ深く刺さった。8年間、胸の奥で守り続けてきたものが、その一言で音もなく崩れた。その傷を誰にも見せないまま、私はゆっくりと大人になっていった。
10年後、息子という命を授かって、初めて知った。
母が「腎臓はいらない」と言ったのは——愛だった。
1998
息子が生まれた。同じ年、離婚した。
喜びと痛みが、同時にやってきた年だった。
2007.9.17
母が逝ったのは、奇しくも——敬老の日だった。
敬老の日に赤いバラを贈る習慣を、日本全国に広めたいと、活動していた。準備に動いているその日、知らせを受け、新幹線に飛び乗った。間に合った。
母が選んだかのように、葬儀もまた、静かに営まれた。そして——式が終わると、雨が上がり、空に、虹が出た。
これは母からのメッセージだと思い、その後10年以上、活動を続けた。
2009
妹も、失った。
母を看取った翌年、妹に癌が見つかった。2年の間に、2人を失った。
Turning Point
からだは正直だった。
鬱、パニック障害、アトピー、メニエール病——悲しみは形を変えて、次々と現れた。
そんな私を変えたのは、ある人からの情報だった。思いがけない出会いに素直に行動したら、からだの奥が初めて応えた気がした。
Discovery
100人いれば、100人違う。
水素吸引を始めたら、驚くほど体調が良くなった。素直にSNSで発信したら、反響は予想をはるかに超えた。
けれど、水素で良くなる人ばかりではなかった。なぜ——?
医師や専門家と共に調べていくにつれ、専門家でもわからないことだらけだとわかった。これが、からだ実験室が生まれた物語。
9 Years of Experiments
| 70名 | 水素実験 | 血流センサーで血管が育つ経過観察 |
| 70名 | 瞑想実験 | 1年半の瞑想実験の中で、自己実現を体験 |
| 140名 | 幹細胞まつ毛モニター | まゆげの成長観察 |
| 60名 | NMN美容液モニター | 肌チェック機器を使用して検証 |
| 30名 | 波動研究 | 調整を行い悩み改善を検証 |
| 30名 | 幹細胞フェムケアモニター | 血液検査を行い、使用可能なメンバーで検証 |
| 30名 | 医師による勉強会 | 血液検査を読み解き、波動医療・再生医療 |
| 他多数 | さまざまな実験 | 消費者視点での商品開発サポート |
Now
10年間の実験が、教えてくれた。
常識という思いこみが変われば、からだは必ず応える。
常識を疑いこの場所をつくった私が、一番良くなった。
だから今度は、目の前の人たちのためにもっと大きな実験場をつくる。
2026 — Restart
2026年5月、クリニックの副院長を辞め、からだ実験室に専念することを決めた。
もっと私らしく生きること。若い世代が、誰にも言えなかった悩みを、ここでなら言える——そんな場所をつくること。
その想いをまっすぐに携えて——からだ実験室を、あらたに始める。